【ドラマ】エクスパンス -巨獣めざめる-

「巨獣めざめる」という副題は原作との関係上つけられたものだが、このドラマシリーズにおいてはまったく余計なものでしかなく、「巨獣」らしきものは出てこないと言ってよい。6つのシーズンで全62エピソードは見応えがあるが、内容のレベルにはかなり差があった。小惑星や火星、木星土星、そしてそれらの衛星が舞台となるスケールの大きさにはロマンもあり、非常に面白かった。惑星の描写や宇宙での艦隊同士の戦いには予算もかけていて迫力十分だが、会話主体で終わってしまう物足りないエピソードも少なくなかった。

見進める上で一番の問題は、次のイベントに移行する合理性が十分に語られないままストーリーが展開してしまうこと。説明が弱いまま話が進むので、何度「あれ、主人公は何のためにここにいるんだっけ?」というシーンに直面したことか。船長のジム・ホールデンが理性より感性を重んじるタイプだったということもあり、また地球と火星、小惑星帯のパワーバランスや敵対関係も固定ではないので、ロシナンテ号のその時点での状況をうなく把握できなかったのだ。

その意味では、アマゾン製作に移行したシーズン4からはマルコ・イナロスを「悪玉」に固定したことでわかりやすくはなった一方で、本来のテーマだったはすのプロト分子の位置づけが飛んでしまった。とってつけたようにシーズン6で各エピソードのプロローグに関連をほのめかす展開を用意してはいたが、かえって謎かけにようになってしまったように感じた。このあたりはシーズン更新の綾で、「LOST症候群」とでも呼ぶべきところかもしれない。

【映画】シン・ウルトラマン

オリジナルのウルトラマンは「空想特撮シリーズ」という位置づけだったが、本作は人間社会の対立と戦争の合理性を巡る社会的な作品だ。原作に対するオマージュもある一方で、設定に大幅な改変も加えられているが、それはすべて「原作を自らの文脈で再構成した」ということなのだろう。序盤を見る限り、ももクロやジャニーズ、女性タレントを前面に押し出した低俗な作りにも見えたのだが、西島秀俊山本耕史の演技に集約されるように完璧なキャスティングだという印象に変わってゆく。

山本の演技も素晴らしいが、メフィラスの設定はオリジナルの「メフィラス星人」を生かしつつも独特の世界観を再構成している。ザラブは、ニセウルトラマンや巨大化した浅見を見せるためには不可欠な要素だった。オリジナルでの宇宙人と言えばバルタン星人だが、「難民」であることは本作の文脈では広がり過ぎて扱いづらかったのだろう。ウルトラマンが神永と融合する過程やゾーフィとの最後の会話、そして最終的に人類の力で外敵を倒す設定はオリジナルを踏襲しているし、オリジナルを見ているからこそ理解がしやすかったのかもしれない。

全体的な印象としてはハリウッド的なものを感じたし、日本の映画演劇によくある「独自の流儀を押し付ける」要素が少なかったことを大いに評価したい。ただ、日本人の日常を描くシーンで狭いそば屋が描かれたり、メフィラスと神永が居酒屋で会食したりという部分では「やはり日本人の生活といえば、こうなってしまうのか」という微妙な絶望感を覚えたことも事実。自分の日常とはあまりにかけ離れた描写ではあるが、「それが日本人だ」と言われれば否定もできない。製作陣の意図として、果たして本当にこれでよかったのだろうか。

【王子グルメ】トラットリアみのり

以前はカジュアルイタリアンとして営業していた「トラットリアみのり」が、道を挟んで向かい側に移転増床して、オーセンティックなコンセプトに生まれ変わりました。この日は僕の誕生日だったので、予約して妻とディナー。プリフィクスのコースでしたが、カプレーゼや白いミネストローネ、カウアイシュリンプのリガトーニ、牛のタリアータと堪能しました。

アペリティフリモンチェッロも酸っぱくなくて飲みやすく、デザートも2品選べて大満足。ちなみに、いちごのババロアとチョコレートケーキを選びました。ワインはソムリエが選んでくれて、妻も僕もイメージにあったものをサーブしてくれ、かなり酔ってしまいました…

【ドラマ】カレイドスコープ

とある強盗事件に至る経緯から後日譚までを、時系列をバラバラにして展開する全9話のドラマ。1話目は48秒の予告編のような構成なので、実質的には全8話だ。各エピソードには番号ではなく色の名前が振られていて、順番に意味がないことを示している。しかし、見進めてゆく中で湧いてくる疑問が、次のエピソードで解消されるような順番になっているので、この通りに見る方がストレスを感じないだろう。

キャストはかなり充実していて、「ブレイキングバッド」のガスを演じたジャンカルロ・エスポージトと「高い城の男」のジョン・スミス役のルーファス・シーウェルが個性を生かした見事な演技を見せる。10年以上にわたって時系列を遡るのだが、特殊メイクを巧みに使って当時の年齢を描き分けるあたりも必見だ。そして、僕としては「シカゴ・メッド」で臨床検査を担当するジョーイを演じていたピーター・マーク・ケンダルの演技が印象に残った。「シカゴ~」では真面目な青年という役柄だったが、本作では不器用な強盗団の一員として全体によいアクセントをつけてくれていた。

最後から2つめのエピソードのラストシーンで、ある主要人物の背後に銃弾が迫るシーンがあるが、その後が語られていないことがとても気になっている。余韻を持たせる手法は理解できるのだが、ぜひその続きを見たいものだ。リミテッドシリーズなのでシーズン更新はなさそうだが、映画化もしくはスペシャル枠で時系列に再構成した上で、続きをつなげてみてはいかがだろうか。期待しているオーディエンスは、僕だけではないと思うのだが…

【アデレード国際1】西岡良仁―コルダ

SF第2セット序盤での途中棄権ということで、Twitterにも西岡の状態を心配する声があふれているが、これははっきり言ってプロテニスプレイヤーとしての職場放棄以外の何物でもない。タイブレーク終盤の微妙な判定に激高して、収まらないところでブレークを許したタイミングでメディカルタイムアウト。これはジョコビッチがよく使う、落ち着くための手法だろう。そして再開後には、サーブを待つ瞬間も腰を下げずにやる気なさそうな表情を浮かべ、エースを決められて棄権。土曜日の一番の楽しみにしていたこの試合で西岡に裏切られる形になってしまい、残念というより西岡に対する諦めしか感じない。

予兆は前日にあった。ポピリンとのQFでも、不利な判定に怒りを募らせ、英語で長時間わめき散らした後に、日本語で「マジ、おまえら何も考えてない」という捨て台詞を残しながら、そこからモチベーションを取り戻して勝利していた。この日も序盤から降りな判定というか、明らかに西岡のポイントなのに取ってもらえずに苦労していた。TennisTVで見る限り、前日と同じラインパーソンのように見え、チェアアンパイアこそ前日のような木で鼻を括ったような対応ではなかったが、西岡が怒るのは当然だと思う。

もともとオーストラリアには白豪主義という人種差別政策があり、今もその残滓は根強く残っていると聞く。判定に何が影響したか、何かが影響したのかはわからないが、あそこまで西岡がメンタルを乱すということは、プロテニスプレイヤーとしての根幹を揺るがされたような経緯があったのだろう。

しかしながら、その点を考慮したとしても、あの棄権はあり得ない。勝ったコルダも当惑していたし、スタンドの観客からはブーイングも聞こえたように思う。僕自身も感情が爆発してしまうタイプなのだが、それで仕事を放棄することはないし、周囲との関係を壊すような放置はしない。どんなに次世代の育成に貢献している選手でも、職場放棄するような人間を応援するのは難しいのだ。今は、もともと西岡のメンタルを課題視していたザハルカコーチがどう対応するか、そして西岡自身がSNSで何を語るかに注目している。

【ジルベスターコンサート2022-23】「新世界より」とピアノ連弾

今回のジルベスターも、盛りだくさんというかお子様ランチ的というか、年末年始らしいとりとめのないラインナップ。その中では、ヴィヴァルディの冬が印象に残った。ソリストの服部百音の音はちょっと重めだったが、オケの歯切れの良さでうまく中和されて曲調を醸し出していた。

そしてドヴォルザーク交響曲第9番新世界より」から第4楽章での年越し。最後の音を8秒伸ばして切るのは、ジルベスターの演出としては安直な気がする。個人的には、例えばキャンディード序曲のように最後の後がリズミカルに切れる曲で、その1秒後に新年を迎えるのが理想ではないか。また「新世界」という単語は新年にふさわしいようにも見えるが、本来は「新世界=新大陸=アメリカ」を指すので、違うメッセージにもなりかねない危うさもある。

そして一番の見どころは、ピアノのYouTuber「かてぃん」こと角野隼斗と指揮者の鈴木優人によるバッハをベースにした即興連弾。鈴木の楽しそうな表情が何とも良い味を出していて、明けたばかりの新年の雰囲気にはふさわしかった。

MCの高橋克典が眠そうに見えたことが気になったが、それ以上に、年齢層がかなり高いこのオーディエンスがカオス状態であろうセンター街を抜けて渋谷駅に向かうことを考えると不安でしかなかった。Bunkamuraの建て替えでオーチャードホールの営業も縮小するようだが、次回の年越しはどうなるのだろうか。

【映画】LAMB/ラム

「ラム」は、アイスランドの荒涼とした自然の中で繰り広げられるダークな物語。あまり予備知識を持たずに見たのだが、僕の想像力の斜め上を行く発想についていくのが大変だった。とにかく台詞が少なく、独特の世界観は役者の演技とカメラワークで表現される。ただ、演技という意味においては人間の役者のみならず、犬や猫、羊といった動物たちの表情や仕草が効果的に使われていることこそ、本作の最大の特徴といえるだろう。

羊の出産シーンが象徴的に使われているのだが、これを撮影するための準備は相当なものだっただろうし、テイクが繰り返されたのか一発撮りに賭けたのかなど、メイキングに関わる部分に興味をそそられてしまう。羊の生態はよく知らないので判断できないが、犬や猫はいかにもありそうな動きをしてくれるので、それだけで日常感が増す一方、ストーリーの非日常性が際立つ仕掛けになっている。この展開と脚本を思いついた制作陣のクリエイティビティには感服するしかない。

気になるのは、終わり方が唐突すぎること。もう少し余韻を残すのか、あるいはもっと前のシーンで衝撃を残したまま終わるかの方が収まりは良かったように思う。中途半端な余韻を残しながら思いを馳せるには、ちょっと重すぎるテーマだからだ。同じ発想で次回作を作ってしまうと大失敗しそうな気がするので、このプロダクションにはどんな視点を新たに見出すかに期待したい。