「ファンファーレ」というタイトルと冒頭のオーケストラの演奏シーンからは、どう考えても音楽がテーマのように思えたが、実は養子であることを知らずに37年を過ごしてきたティボが自分のルーツを取り戻す物語なのであった。
主人公ティボと離れて暮らしていた弟ジミーとの共通点は音楽のセンス。プロの指揮者であるティボに対し、ジミーは下手くそな炭鉱のアマチュア楽団でトロンボーンを吹いている。それは別に優劣ではなく、音楽への関わり方がまったく違うというだけのことなのだが、ティボの意識にはジミーを引き上げたい思いも見え隠れする。
産みの母の顔は覚えていなくても、彼女が纏っていたタバコの臭いは覚えている。そういう設定だったが、これは嗅覚が記憶と結びついているという考え方を示す好例でもある。僕にとって祖父母の家が障子紙の匂いだったように、ジミーのとっての母親はタバコの臭いだったのだ。
オチが中途半端にも見えたが、ラヴェルの「ボレロ」がプロのオーケストラとアマチュア楽団を結んで、ひとつの壮大な音楽を響かせることの意味は小さくない。直前まで高尚な現代音楽を奏でていたプレイヤーたちが、楽しそうにボレロに参加してゆくモチベーションこそが合奏の原点であって、誰かとパートを分け合って演奏を創り上げる楽しさがなければ、誰も楽器を弾き続けることなどできないだろう。
フランス映画の字幕に「ちげえよ」が出てきたときは、意外を通り越して衝撃を受けたような感覚があった。ただそれは、ティボが音楽理論に裏打ちされた用語を使う一方で、ジミーは率直でわかりやすい言葉を使うことを踏まえた和訳になっているということで納得感はある。
ジミーの住む郊外の街では娯楽は「楽器かサッカー」だが、それはそれで悪くないし、それこそが音楽とサッカーのレベルを日本とは段違いな国にしている本質なのかもしれない。数多くのエンタメが楽しめる社会では、自分たちが目指すキャリアゴールの選択肢も多くなる。その多様性を認めない限り、幸せに生きて行ける人の数は限られてしまうのだ。
