【コミック】Blue Giant Explorer (9) & Blue Giant Momentum (1)

前シリーズの最終巻と次シリーズの第1巻を同時発売する手法がすっかり定着した感のある「Blue Giant」だが、連載を読んでいない僕のようなファンが前シリーズの結末を長い間待たされることになるのは、結構なストレスだ。

さて、「Explorer」はシアトルで北米大陸に上陸した宮本大が南回りでバンドメンバーを集め、ニューヨークに到達するところで終わる。「Momentum」も同じバンドメンバーによるニューヨークでのチャレンジが描かれるので、なぜここでシリーズを割ったのかがわかりにくい。

しかし、実はニューヨークに渡る直前のボストンで、大きなメルクマールが待っている。日本で組んでいたバンドのピアニストで、事故により右手を損傷してしまった沢辺雪祈と再会し、アントニオの計らいで同じステージに立つことになる。これが、北米大陸での最大の出来事であって、作者の石塚真一がじっくりと大と雪祈の心理を描写するのだが、これが実に素晴らしい。いつもなら「音が見える」ような描写に感動するが、今回はふたりがバーで再会する場面と雪祈が不自由な右手に苦しみながらも音を出す場面がクライマックスだ。

互いに相手を思いながら、それぞれに自分の道を貫き、夢の途中で再び交差する人生。ステージのシーンでは、アントニオの計らいだけでなく、ゾッドやジョーも演奏でサポートする。仲間の演奏に目を配りながらインプロビゼーションで音を乗せてゆく。それがジャズであり、ライブの魅力なのだ。その味わいが余すことなく描かれ、しっかりとした余韻に包まれる読後感だった。

ここで雪祈をバンドに迎えてしまうのでは安っぽいドラマになってしまうのだが、そうではなく大はアントニオをステージに呼び込んで元のバンドとして進む意志を表明する。ニューヨークを舞台に、いよいよ彼らのジャズミュージシャンとしてのサバイバルが始まった。

【ドラマ】伝えたかった、アイラブユー

コメディだと思って見始めたものの、2話目からはベルリンの壁崩壊やアフガニスタンなど歴史的事実を追いながら、相手に伝わらない家族愛をそれぞれの立場から描く骨太な展開に。そして、最後の最後で、やはりコメディだったのだということが明示されて終わるという、何ともフランスらしい壮大な作品だった。

1話30分強の全9話は合計すれば4時間半になるので、長編の映画を1本見ているような感覚になる。それほどに中身が充実しており、考えさせられる内容になっている。「あなたのため」とか「愛」とか、ドラマでは常にテーマとして取り上げられるが、普通は「独り善がりでは伝わらないよね」で終わってしまうところ、その心情を掘り下げることで、見る者が自身の経験を解釈し直すことができるような展開になる。僕は父親に対して心理面ではほとんど何も期待せず、反発して育ったのだが、彼が何を思って僕に接していたのかが何となく理解できたような気すらした。

ジャン・レノの演技は見事で、表情や台詞回しに引き込まれる場面が何度もあった。彼が演じたからこそ、偏屈な父親が子供に与える愛情の意味をポジティブに解釈できたのだろう。娘のジュリアを演じたアレクサンドラ・マリア・ララも、深みのある演技で父の愛情を受け止め直す心理がよく伝わってきた。

1話目を見ただけでは、この作品の意図や構成が十分に理解できず、コメディ要素も薄いので「1話切り」したくなってしまうかもしれないが、それでは本当にもったいない。ぜひ、2話目をじっくり見て欲しい。

【清水―大分】実力差は明白

大分にとっては、完全に力負けした試合だった。昨季も清水には乾のスーパーゴールで格の違いを見せつけられたが、今回はチームとしてのレベルがまったく違っていた。序盤こそ五分の攻防にも見えたが、徐々に差が目立ち始める。

前半は守ってスコアレスで終え、後半にオープンな展開になったところでゴールを奪うシナリオは、以前から片野坂監督の定石。言い換えると前半45分を無駄に過ごすということで、だからこその伊佐起用なのだろう。野村を左に配して香川との連携で崩し、ファーサイドに流れたら宇津元が押し込む。そんなプランを描いていたはずだ。

しかし、左サイドで作るしか選択肢がなければ、清水も守りやすい。強度の高いプレスで大分のポゼッションを妨げるばかりか、1トップの伊佐や攻撃の要である野村の足元にまったく収めさせない完璧な守備だった。

そして清水のパス回しの中では、トラップがしっかり決まる。次のプレーを選手たちが共有し、それを実現する。技術の高さとポジショニングが相俟って、リズムのよい攻撃を作り上げていた。GK濵田が驚異的なセーブを連発していなければ、ボロ負けしていても不思議ではなかったほどだ。

一方で大分のパスは、判断もパススピードもワンテンポ遅い上に、受け手の利き足も考慮する余裕がない。清水のプレスに自分の責任を回避するのが精一杯で、まったく効果的なパスを出せなかった。長沢を投入しながら、ロングボールさえ蹴らせてもらえなかった現実をきっちり振り返る必要があるだろう。

補強の方向性が将来を見据えているように見えていたことからも、今季のJ1昇格は必ずしも望んでいるわけではないのだが、それならもっと攻撃の駒として若手に出場時間を割いて欲しい。今日の野村の出来ならば、早い時間に下げた方がよかったはずだ。

【朝日新書】人類の終着点

エマニュエル・トッドマルクス・ガブリエル、フランシス・フクヤマらの知見がアンソロジーのように詰め込まれた一冊は、「戦争、AI、ヒューマニティの未来」という副題が添えられている。ウクライナパレスチナでは戦いが起こり、生成AIが人間の領域に進出することによって、変わりつつある世の中の枠組みを読み解くヒントが随所に散りばめられた内容だ。

ダイバーシティインクルージョンの観点では、属性によるセグメンテーションを行うことによって、かえって多様化が阻害されるという問題が提起されている。マイノリティに配慮しているようでも、結果的にその人を型に嵌めることになり、かえって残酷な状況に追い込んでしまうということ。アカデミー賞授賞式でも、人為的にダイバーシティインクルージョンを見せようとして、かえって差別意識を浮き彫りにしてしまったという見方もある。

道徳的実在論と道徳的非実在論(=相対主義)ろいう切り口からは、「普遍的な道徳は存在するのか」という投げ掛けがある。実は僕は、大学で社会学専攻の卒論のテーマとして「宗教的倫理観が衰退した世界に、普遍的道徳は不可欠だ」という論点を扱った。それなくしては、弱肉強食に回帰してしまうという危機感があった。

しかし、今やウクライナでもパレスチナでも「他人を殺す」ことが禁忌ではなく、自らの価値観で正当化してしまう状況があるので、相対主義としか言い様がない。つまりは、絶対的な正義は存在しないし、ゆえに争いを収める論理もあり得ない。「話せばわかる」は夢物語でしかないということだ。

エマニュエル・トッドは「輝かしい民主主義の時代はもう戻ってこない」と語り、「資本主義がダメなのではなく、現在の資本主義は中途半端なのだ」と主張する。資本主義が完成形であれば、例えば転職やプラットフォームの選択が広く保証されて、自由を享受できる。それがないということは、資本の偏在や参入障壁など未解決の障壁の存在を意味する。転職先がないとか代替プラットフォームがなく寡占状態だということだ。

量子論は、法則性はありながらも確率と共存する世界。集合としては法則に従いつつも、個としては確率に運命をゆだねる。人類としての未来が明るいか暗いかに関わらず、個としては人生を楽しめる可能性があるという解釈は成り立つのかもしれない。

【ドラマ】メイヤー・オブ・キングスタウン シーズン2

ジェレミー・レナー主演の「メイヤー・オブ・キングスタウン」は、ギャングや囚人、刑務官、警察などの調整役として存在する「市長」の物語。前シーズンでもレナーが伸び伸び演技している感じは窺えたが、シーズン2でその傾向はさらに増していた。言い換えると、マクラスキー兄弟のキャラが立ってきたということで、調整役としての描写もリアリティが一段と高まった。

相変わらずギャングの抗争は壮絶で、人はあっという間に死んでしまう。ただ、主要人物はかなり派手に撃たれたり刺されたりしても生き延びるので、そのバランスは都合がよすぎる一面もある。「なんだ、生きてるのかよ」という思いと「今後の展開を考えると死ななくてよかった」という思いが錯綜するのは、キャラクターでの感情移入ができるように仕向けられているということなのかもしれない。

キングスタウンは架空の都市だが、設定はミシガン湖のほとり。僕が実際に訪れたシカゴは平和で、コンビニで落とした20ドル紙幣を高校生が拾って返してくれたことが印象に残っているのだが、いわゆる中西部を描いたドラマでは歴史的に悪がはびこる土地として描かれている。まあ実態としては、東海岸からスタートした入植がフロンティアを西に広げてゆく過程での生存競争だと考えれば、人類の歴史においては特別なことではないのだろう。

【映画】ナイアド ~その決意は海を越える~

60歳を越えた女性がキューバからフロリダのキーウェストまで泳ぎ切るプロジェクトを、記録映像を交えながらドキュメンタリーのように追う物語。見るまでは、一度のチャレンジを追うだけと思っていたのだが、実際は失敗を重ねる経緯から描かれている。高齢故に次のチャンスがあるかどうかわからない中で、天候や海流の変化を読みながらの行動はまさにチームプレーだ。

チームの中心にいるのは、当然のことながらスイマーである主人公のダイアナ・ナイアド。自らを「CEO」にたとえる発言もあるほどに責任を追っているが、それが周囲には独善的に見えてしまう。スイマーが完泳してこそのプロジェクトであることは間違いないが、そのためにチームメンバーを死の危険に晒してしまってはチームが崩壊しかねないことは想像に難くない。

これはまさに、企業の姿を写しているとも言える。社長が自らの責任感で舵を取っていたとしても、権威を笠に着て横暴になっているように見えてしまいがちだ。これを防ぐためには、昨今はやりの「パーパス」のようにチームが目指す姿を可視化して共有する必要がある。いくら社長が優れていても、社員が同じ方向を向いて成果を出せなければ空回りするだけなのだ。

俳優陣の演技も素晴らしく、単に感情表現とか台詞回しに留まらず、自分が背負っている歴史や家族や借金などを含めた姿を重厚に表現している。アカデミー賞にノミネートされたアネット・ベニングジョディ・フォスターはもちろん、「ハリー・ポッター」シリーズでルーナ・ラブグッドの父親ゼノフィリウスを演じていたリス・エヴァンスが演じた航海士も見応え十分な演技だった。

【アカデミー賞】第96回授賞式

アカデミー賞は本来、内輪の表彰式だ。だから品のないジョークを連発しようが、個人名を並べて感謝を伝えたとしても、外部から文句を言われる筋合いなどない。しかし、今年の授賞式はかなり「見せる」ことを意識しており、自分たち以外の目に対する配慮を施していたように見受けられた。

例えば、プレゼンターとしてノミニーと同数の人数を揃えて、1対1でノミニーに対する賛辞を述べた後に受賞者を発表する形に変更した。それも、黒人同士やアジア系同士といったような属性合わせをあえて避け、ダイバーシティインクルージョンとしての見え方を目指した。それは結果的に、受賞者がどのプレゼンターからオスカーをもらうかとどのプレゼンターと喜びを分かち合いたいかの間に齟齬が生じ、ロバート・ダウニーJrやエマ・ストーンのように批判を受けるオチがついてしまったのだから、試みが成功したとは言い難い。

ここのところ韓国に押され気味だった日本勢も、「君たちはどう生きるか」と「ゴジラ-1.0」が受賞したことで息を吹き返した。残念なのは、「君たち~」のスタッフが誰も出席していなかったことと、「ゴジラ~」の受賞スピーチでの英語がカミカミで、メッセージが伝わらなかったこと。最後に女性の声で聞こえた「会場のみんな、東京のみんな、ありがとう!」という日本語の方が、ストレートで思いの伝わるものだった。

個人的に興味を持ったのは、プレゼンターとして登場したマイケル・キートンが"And the Oscar goes to"ではなく"The winner is"というフレーズを使ったこと。個性を発揮したとも言えるが、内輪のしきたりを破るのはかなり勇気がいる行為のはず。「バットマン」としてシュワルツェネッガーダニー・デヴィートに絡まれていたくらいなので、今回の授賞式での存在感は絶大だった。