【大分トリニータ】クラブ創設20周年

1994年はJリーグが開幕した翌年で、アメリカでのワールドカップが開催されている。その年に大分FCが「大分トリニティ」として県リーグに参戦した。僕が初めて観戦したのは大分がJFLに昇格した1996年の開幕戦で、西が丘での東京ガス戦。PK戦にもつれ込む試合を、最後は負傷を抱えていた李咏眞が決めて勝った劇的な試合だったのだ。

それから僕は甲府に遠征もしたし、当時ホームだった大分陸上競技場でのコスモ四日市戦や西濃運輸戦、別府野口原での東京ガス戦も観戦した。当時はJ1に上がることなど、夢のまた夢と感じていた。その後J2に参入した大分は上位争いを演じ、1999年は最終節の山形戦で「秋天の陽炎」と呼ばれたロスタイムの失点でJ1昇格を逃すことになる。しかし、この失点を喫す前の段階で僕は「今年昇格してはいけない」と感じていた。昇格を争っていても、15,000ほどのキャパのホームスタジアムは満員にならない状況。これでは地元に根付いておらず、J1で勝てなければサポートを失ってしまうからだ。

そして、2002年。日韓ワールドカップ大分ビッグアイでも試合を行った。せっかく作ったスタジアムを活用するにはこの上ない結果をもたらす。昇格を決めた大宮でのゲームを観戦したが、西山哲平のクロスを吉田孝行が合わせ、最後は山根巌が詰めて昇格を手にした。

2008年にはナビスコカップを制す。清水と対戦した国立での決勝では、ウェズレイと高松がゴールを決め、力で勝利を奪い取った。しかし、翌年は序盤から負傷者と退場者が相次ぎ、結局J2に降格してしまう。そしてJ2での雌伏の時期を経て、2012年は昇格プレーオフを森島の活躍で京都と千葉を破り、J1へのチケットを手にした。ところが、J1では2勝しかできずに、ホーム未勝利のままシーズンを終えて迎えたのが今シーズンだ。

田坂和昭という頑迷な監督がチームを混乱させ、青野社長も財政面の課題を優先してチームスタッフの状況までは手が回っていない。あれだけ強化に失敗しながら、担当取締役は何の責任もとっていない。それでも溝畑前社長の失政で作った負債の完済に目処が立ったのだから、これで前が向けるはずだ。大分FC、20周年おめでとう。これが節目になり、新たな歴史を刻んでくれることを祈っている。