【村上春樹】街とその不確かな壁

2つのプロットがひとつに収束してゆく流れには、既視感を感じていた。それは「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の体裁だが、その流れで完結したかのように見えた第1部の後にも、さらに物語は用意されていた。第1部では「ぼく」と「きみ」、「僕」と「君」で主語を使い分けることで、時間の経過と立ち位置の変化が表される。一人称が「ぼく」であってストーリーテラーを置かない形式は、もともと春樹のスタイルだった。ワタナベトオルという俳優のような名前を主人公につけた「ノルウェイの森」が、本来は異質だったのだ。

第2部以降に登場する「子易さん」と「イエロー・サブマリンのパーカを着た少年」は象徴的だ。「自我に閉じこもっていられる世界」は隠遁生活のようなものかもしれないが、それと「他者と折り合いをつけなければならない世界」が対立しつつ、表裏一体の存在として描かれる。ただ、前者を妄信するのではなく、後者がもたらすメリットを享受したくなることもあるし、そのふたつの世界を行きつ戻りつすることもある。個人は、その両面を持っていて、それらが乖離してしまうときにメンタル不調に陥ってしまうということなのだと理解した。それらは対立でも「1かゼロか」でもない。

自我の世界においては「時間は存在しない」と表現した後で、「いや、存在しないのではなく、意味をもたない」と言い換えられる。僕の中では、時間とは「(状態の)変化」を定量化したものなので、物事が変化している以上、概念的な時間は存在せざるを得ない。だからこそ「存在はするが、意味をもたない」という解釈は、僕にとっては納得感があってすっきりする。

自我の世界から他者と共存する世界へ戻るためには、「受け止めてもらえると信じること」が必要で、それによって「社会」へ戻ることができる。この表現に、村上春樹の思いが集約されているように感じた。また、「現実とはいくつかの選択肢の中から、自分で選び取らなくてはならないもの」という表現も、心に刺さる。つまり、現実は外から与えられたわけではなく、自分が下した選択の結果でしかないということなのだ。

本筋からは離れるが、コーヒーショップの女性との会話には、いかにも春樹らしい要素が詰まっている。「ロシア5人組」に誰が含まれていたかというようなプロットは、春樹ファンのために仕込まれたプレゼントのような印象すらある。600ページを超える大作だが、完成に至る長い経緯は「あとがき」に記されているので、最後にまた別の視点から俯瞰する機会があるのもうれしい。