この作品は、もちろんダイバーシティの第一歩としての女性の地位向上がテーマになっているのは確かだが、それ以上に「固定観念にとらわれる呪縛からの解放」こそ重要なポイントだったのではないだろうか。自らがフィルターのかかった判断をしてしまうことに加え、他人にも同じ判断を求めてしまう。「強制している」という自覚はないにしても、それが結果的に同調圧力として社会にもたらすプレッシャーは強大だ。
ただ、「絶対的な善は存在しない」という価値観もまた「ひとつの価値観」でしかないので、それを唯一絶対の真理だとすれば自己矛盾を引き起こしてしまう。社会にとって共通の規範となりうる価値観があった方が効率的なことは事実だろうし、そのコストを負担してまでダイバーシティに向かうのは、それなりに豊かな社会だからこそ可能なのだ。その論点を見失うと、単に異なる宗教同士の争いにしかならなくなってしまう。
アカデミー賞授賞式で「I’m Just Ken」を歌うライアン・ゴズリングを見て感じたのは、年齢的にケンらしくないゴズリングをなぜキャスティングしたのかという疑問だった。映像を見る限り、ケンの想定年齢を大きく上回っているのは明らか。バービーランドのような「作り物感」を出すために、あえて起用したのではないかと思っていた。
しかし、作品を見て感じたのは、「男性優位の社会」のメタファーとしては芯の強さが必要であり、なおかつ歌って踊れる俳優でなければこの役はこなせないということ。そうなると、「ラ・ラ・ランド」でも似たような役どころをこなしてゴールデングローブ主演男優賞を獲得している彼は適任なのだろう。マーベルのドラマでおなじみのシム・リウとキングズリー・ベン・アディルが脇を固め、アジア系と黒人とのトリオという定番の組み合わせも、この作品には欠かせない。