【光市母子殺害】朝日新聞「声」から

普段はいかにも「朝日的」な意見ばかり取り上げる傾向を感じる朝日新聞朝刊の投書欄「声」ですが、今朝はバランスのとれた構成を見せてくれました。差し戻し審の公判が続く光市母子殺害事件に関し、「死刑にすれば終わりなのか」と情状面の妥当性を問うものと「弁護団の姿勢、疑問を感じる」とあくまで無罪を主張する弁護団の姿勢に疑問を呈するものを並べています。

このふたつの主張は一見相反するものに見えますが、決してそうではないのです。僕はどちらの意見にもうなずけるところがありますから。まず前者の量刑の妥当性ですが、ここで問題になるのは被害者の遺族が極刑を主張していることです。最近は、マスコミがいろいろな事件で被害者の遺族に判決や公判についての意見を求めますが、当然のこととはいえ遺族はたいていのケースで極刑を求めます。しかし、刑法とは、法律とは国民生活の秩序維持を保つためのものであって、被害者や遺族の復讐の場でもなければ、彼らを納得させることが目的ですらないのです。どうも最近のマスコミや世論は、ここのところを誤解・曲解しているような気がしてなりません。

一方、弁護団の姿勢にも疑問を感じざるを得ません。責任能力ということがよく取り沙汰されますが、責任能力の不在による無罪とは、そうそう簡単に判断されてよいものではないはずです。しかも差し戻し審でそれまでの論旨をまったく変えていることは、橋下弁護士の提唱する「弁護団の非行」に通じるものだと思います。

いずれの論旨も、この光市の事件についてのみあてはまることではなく、最近の公判やその報道において、国民・視聴者が感じている違和感を率直に表したものでしょう。安易な報道で「目には目を」的な判決を求めていく風潮を排し、日本という法治国家の法律は国民にこそその源泉があることを再認識する必要があるように思います。そのためには裁判員制度は、ちょうどよい施行になるのではないでしょうか。