【青山美智子】赤と青とエスキース

登場人物の異なる4つの短編によるアンソロジーかと思いきや、「エピローグ」の中でそれらが意味を持ってつながることが明かされる。個々の章につけられたタイトルは、メインとなる主人公のふたりの名前も含め「赤」と「青」の隠喩的に使われている。

タイトルに含まれる「エスキース」は「作品を描くための下絵」だが、その使い方や額装の意味、ペインティングナイフの技法などアートの世界に精通していなければ描けないもの。それらを巧みに取り込み、短編集のようで最後には収束してゆく中編に仕立てる技術は素晴らしいの一言だ。

ただ、4つの場面を切り取ってそれぞれに主観となる人物を置き、彼もしくは彼女に語らせる手法にこだわったがために、筆者自身と決して近くない立場の人物に語らせる部分でリアリティが失われてしまったことは残念だ。第3章で漫画家の中年男性に語らせる言葉はオヤジギャグに塗れ、古い価値観を透けて見せようとしているが、作品全体の持つ雰囲気を壊してしまったように思う。

作品の中に、以下の一節がある。

>> 絵は何も変わっていないのに。

>> 変わるのは、世の中の価値観だ。描いた本人の想いとは無関係に。

>> ブーの苛立ちは、絵画を愛するがゆえの苦悩だったのだと思う。

この部分に籠められた著者の感情には共感するが、自分なりに置き換えるならば「世の中の価値観が変われば、その絵の付加価値が変わる」ということ。絵画に限らず、立体や写真や音楽や舞踊などの芸術作品は、すべて作品そのものが単体で存在しているのではなく、そこに様々なコンテキストが織り込まれているものだ。

そしてそれは、受け手固有の情報も含まれる。鑑賞者が過去に体験した事実や感情によって、作品の価値が増したり減らされたりしてしまう。それゆえに鑑賞する者の価値観が変われば、あるいは社会の価値観が多様化すれば、その作品の評価は根本的に変わり得る。その変化が作者の意志とは無関係だからこそ、作者と鑑賞者の間に起きる有機反応の偶発性に意味があると言える。

作品のテーマとしては、「パートナーをひとりにしないように、一緒にいる」ことの意味に主人公が気づくことにあるのだろう。これも価値観の問題だが、「一緒にいる」という状態だけで満足できるか、そこに「行為」が伴わないとダメかという違いがある。要は「どれだけ構えばよいか」ということだが、これも人によって温度差がある上に、それを推し量るのが難しい領域だけに、大事な人との関係性を壊しかねない要素になる。一人の個人でも、時間の経過とともに無意識に変化することもあり得るのが難しいところでもあり、それゆえに主人公が気づくまでに長い時間を要した。

また文中に、「鏡のない時代の人間は自分の顔を知らない」という趣旨の表現があるが、水面に映る自身の姿はいつの時代でも見られたはず。このあたりの設定の浅さも気にはなったが、終盤に伏線をまとめ切ってくれた満足感で、すべての問題は解消されてしまった。