2024年にアジア女性として初めてノーベル文学賞を受賞したハン・ガン(韓江/ 한강/ Han Kang)の2021年に出版された小説「別れを告げない」を読了。斎藤真理子による翻訳は、済州島の方言を日本の方言に置き換えるなど工夫が凝らされ、原作に籠められた作者の思いを忠実に掬い上げている印象だ。ただ、「12」を「十二」ではなく「一二」とする数字の表記や、一部の言い回しには違和感もあった。それも含めて、尖った翻訳だったということだろう。
生と死が二律背反の存在ではなく、その境界があいまいなまま揺れ動くもののように描かれる。「済州島四・三事件」が扱われているとはいえ政治的な色合いは薄く、生と死の境目、あるいは死の印象や周囲に残す影響といったことが圧倒的な描写力によって文字に落とし込まれている。
それらを認識する感性もすばらしいが、それを文字に変換する能力は驚異的だ。そしてその文字は、読み手の頭と心の中で再び作者のイメージを再現させる。例えば、死を体験した「場」が持つ重苦しく狂おしいような気配を、僕はリュブリヤナのスロヴェニア国立美術館で副葬品の展示エリアに入ったときに感じた。そしてグラウンド・ゼロでも再び感じていたそんな空気の重さが、この本の行間から滲み出していた。
それは田坂広志の「死は存在しない」にあった、人の魂はエネルギーの振動としてひとつの箇所に収斂するという「ゼロ・ポイント・フィールド理論」にも通じるのかもしれない。霊魂とか怨念とか表現されるものが振動ならば、残り続けることは可能だろう。
生と死があいまいになり、その判断が個人の主観に委ねられているかのような状況は、シュレディンガーの猫のような量子力学のような世界でもあり、マルチバースと言い換えてもよい。ただ、マーベルの作り物感満載で我田引水的な世界観ではなく、世界は捉える主体によって変化するのだということを、じっくり掘り下げているような感覚を受けた。
これは僕も以前から考えていたことだが、人の死とは肉体的な死ではなく、生存する誰かがその人のことを記憶している限り生き続けているのではないか。世界が主観的なものだという前提に立てば、この考え方は十分に成り立つはず。視点を変えてみると、大切に思う人のことを忘れない限りその人は生き続けられるということだ。
どんなに暗い思い出に苛まれても、その人のことを記憶に留めて脳裏に蘇らせることでその人を生き永らえさせる。それがその人に対する愛であり、だからこそ著者が登場人物に語らせたり、あとがきの中でも触れている「究極の愛」につながるのだろう。そしてそれこそが、著者がこの作品のテーマに置いていたことの本質なのだと思っている。