【サッカー】キャプテンシーを感じる場面

僕の会社の価値観に、「リーダーシップは管理職だけに求めるのではなく、全社員がそれぞれの局面でリーダーである」という意味の言葉がある。スポーツにおけるキャプテンシーも、これと同じ事ではないだろうか。サッカーではタイムアウトがないから、監督はピッチサイドから指示を飛ばすしかない。それだけにピッチにいる選手ひとりひとりの意識が重要なのだ。

さて、それではキャプテンシーを感じるのは、どんな場面だろうか。先日のイラン戦で福西のゴールで追いついたときに、喜びに浸る仲間をよそに中村俊輔ジーコに近寄り、「勝ちにいくか、引き分け狙いか」を確認したという。これも立派なキャプテンシーだ。また、かつて横浜フリューゲルスに在籍していた高田昌明は、メンバーの中では一番若かったにも関わらず、タイムアップ間際の得点に浮かれる仲間の輪に加わらず、センターサークルに立って試合が再開されないようにしていたという。センターサークルに相手選手がいれば、早くリスタートしようとしてもできないのだ。

他にも、荒れた北朝鮮-イラン戦で審判に詰め寄る仲間を必死に止めようとしていた安英学の行為も、キャプテンシーと見ることが出来る。要は、サッカーの機微を知り尽くして、それを仲間に伝えていくこと。それがキャプテンシーだと思うのだ。決して、左腕にマークがついていればそれでいいというわけではないのだ。

もうひとつ、僕が唸った場面を紹介したい。マリノスで出番に恵まれなかった吉田孝行が当時J2の大分に移籍した直後の試合のことだ。当時の大分はアンドラジーニャやウィルという一癖あるブラジル人頼りのチームで、経験の浅い日本人選手との溝を感じずにはいられなかった。そんな中、ブラジル人選手が得点を決めて、いつものようにブラジル人3人で派手に喜びを表現しているその輪に、吉田は加わったのだ。照れを隠せない日本人選手の意識が、吉田を媒介として変わっていったように、僕には見えた。これこそが今、吉田の腕にキャプテンマークが巻かれている原点だったと、僕は信じている。