【ロンドンオリンピック】開会式に思う

ロンドンオリンピックの開会式は、イギリスらしい文化の香りを漂わせていた反面、「大英帝国」の強圧的な支配者としての一面を垣間見せていたように思いました。僕の趣味からは、ケネス・ブラナーシェイクスピアの一節を語る場面や、ダニエル・クレイグ演じる007がエリザベス女王エスコートする場面、それに各国選手団を象徴する花びらの形の小さな聖火台がひとつになる演出には心を打たれました。「Jerusalem」や「Sweet Dreams」、「Bohemian Rapsody」などの楽曲も、懐かしい思いを抱かせてくれましたよね。

そして何よりも楽しませてくれたのは、Mr. ビーンことローワン・アトキンソン。彼を起用するというアイデア自体が秀逸ですし、期待にたがわず得意の表情で笑わせてくれたアトキンソンの演技もさすがの一言でした。彼の隣りでキーボードを演奏していたミュージシャンや、アトキンソンとの絡みまで見せてくれた指揮者のサー・サイモン・ラトルも好演だったと思います。

しかし、オリンピックがスポーツの祭典であり選手のものであるべきという視点に立つと、あれだけの長い時間延々とイギリスの歴史と栄光を見せ続けるのはいかがなものでしょうか。おそらく現地で見ている観客にも、全体像のつかみにくい演出だったように思います。選手よりも現地の観客よりも、テレビを通じたビジネスと開催国の威信に重きが置かれていた印象がぬぐえないのです。

また、僕は音楽のライブでミュージシャンがオーディエンスに何かを強いることが嫌いです。「Hey Jude」が名曲であることは否定しませんが、英語にもロックにもなじみのない選手たちもいたでしょう。彼らにも当然のように歌わせようとしたポール・マッカートニーに、大英帝国の傲慢さが透けて見えたような気がして、あまり良い気分ではありませんでした。