【宮部みゆき】「小暮写真館」のブレ

率直に言って、宮部みゆきの作品に100%満足したのは「火車」あたりまでだ。それ以降、彼女は着想や展開そのものよりも、手法にこだわるようになってしまった。宮部の文体は、正統派古典主義とでも言うべきもの。それは、現代物よりも、彼女自身が好きなのであろう歴史物になじむものだ。

「小暮写真館」の主人公は、高校生の花菱英一。彼の家族が写真館だった家屋を買い取り、そこで起こる出来事を描く展開だ。主語は「僕」でも「私」でもなく、英一を主語にしながら語られるのだが、その視点が英一のものであったり、第三者のものだったりと落ち着かない。言い方を変えると、「地の文」が誰のそんな視点で語られているのかがブレ続けるのだ。それ「ブレ」は展開にも波及している。最初は心霊写真騒動の連作かと思いきや、最終的には英一の死んだ妹をめぐる家族の喪失の物語になる。

連作なら、設定は同じでも、それぞれのテーマは違う。だから、この作品は連作短編で間違いない。しかし、最初の方の話の軽さと終盤の重さはまったく異質なものだ。それを語る「地の文」や英一の台詞は、妙に「子どもっぽさ」を強調する一方、宮部独特の「現実の高校生はこんな言葉を使わないだろう」と思われるような古臭い言い回しを語らせる。

結局、宮部はこの作品で何を語り、何を読者に訴えかけたかったのだろうか。その試みは、成功しているとは言い難い。穿った見方をすれば、「宮部自身が語りたい文体で思いつくままに話を展開したら、結果こうなってしまった」ということなのかとも思う。それなりに読後感もあるし、充実している部分もある。しかし、それを700ページにも及ぶ作品に仕立てるのは、かなり無理があったのではないだろうか。

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