「ザ・インタープリター」と「ロスト・イン・トランスレーション」

「通訳」がキーワードになった映画を、2本続けて見ました。テーマはどちらも、「人と人のコミュニケーションにおいて(通訳/翻訳も含め)言葉は完全には役を果たさない」ということかな。

ザ・インタープリター」はサスペンスとしても上質で、ニコール・キッドマンショーン・ペンの二人芝居と言っても過言ではないくらいの存在感でした。これを日本の話に翻案して、「アンフェア」篠原涼子香川照之にやらせてもおもしろそうです。

「ロスト・イン~」の舞台が、例えばカイロやマニラや上海でなく東京なのは、「アメリカを模倣しているようで、実はまったく違う文化の国」として日本が適任だったのでしょう。主人公は渋谷の雑踏や低俗なバラエティ番組に辟易しながらも、結局は「非日常=ハレ」としての魅力に惹かれていきます。どうでもいい内容の電話やメッセージを送りつけてくる妻に飽きれる主人公は、しかし日常に戻っていくのです。それは、非日常が日常になったら、それはそれで同じだからなのだと思います。

ただ、僕は主人公を演じたビル・マーレイは好きになれないし、この作品を単調な仕上がりにしてしまった張本人だと思います。

「インター~」の最後に、ニコールがクー語(実在しない、映画の設定上の言語)でショーンにお悔やみを述べるシーンがあって、ショーンはその単語は知らないけど文脈から意味がわかってしまうとうところに、僕が冒頭で触れた「言葉の役割」の意味が凝縮されていたように思いました。